11「DEATH MIX DEATH」公演記録・須川才蔵氏による批評

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現代霊性論
須川才蔵

core of bellsの「「怪物さんと退屈くんの12ヶ月」について」という文の冒頭には、以下のような謎めいた一文が置かれている。

「怪物さんと退屈くんの12ヶ月」は降霊術と極めてよく似ています。

「降霊術」とは、もちろん亡くなったものの霊を呼び寄せようとする儀式のことである。この文がいおうとしていることは何か。そもそも霊とは何なのか。もう少しこの文の先を見てみよう。

音楽が鳴る前にも止んだ後にも、時間はだらだらと続いていて、それは複雑でありながらとても退屈で、なおかつ贅沢なものです。そこでは、ステージ脇にうごめく闇や、満員のフロアになぜか空いた一人分のスペースも、音や楽曲と同様に時間のエッセンスの一部と言えるでしょう。
僕たちはそこに潜んでいるサムシングに直接触れるため、気配の移り変わりを使って作曲を試みようと考えました。つまり、これは見えない向こう側の世界に向かって話しかけ続ける作業でもあります。既にいくつかの実践や研究を重ねて、僕たちのスキルは高まりました。そして、この退屈な降霊術が、現在の僕たちの生活をどこか反映した普遍に届くことを信じています。

霊_とは「気配」なのか、あるいは「向こう側の世界」なのか。いずれにせよ、ここでは「音楽」とその余白、そしてそれを包む「時間」について書かれているようだ。その余白、あるいは時間の側からは、音楽はどのように見えるのか。この問いは確かに興味深いがひとまず措いて、とりあえず先へ進もう。
古来人間は、自らを霊-魂-肉(あるいは、精神-心-身体/Spirit – Soul – Body/Geist – Seele – Leib)からなっている、と考えてきた。霊も魂もどちらも人間における精神的な領域を司るが、魂は個人の肉体に属するものであり、死後、魂は肉体を離れ、霊界に属する。そして、人間が生まれるとき、魂は霊界から降りてきて、肉体に入り込む。こうした人間観は、洋の東西を問わず、広く共有されていたようだ。
しかし、時代が下るにつれ、しだいにこの違いは見失なわれていく(しかし、霊-魂-肉の三分法は、さまざまなかたちで西洋の思考に影響を残すだろう)。霊と魂がいっしょくたにされる時代に生まれたのが心身二元論であり、さらに現代では、霊や魂は電気信号あるいは単に機能であるとされ(つまりは実在を否定され)、人間に残されるのは肉体だけになる。あとは、それがさまざまな関係性に規定されていくにすぎない。
逆に、亡くなったものの魂が霊界から戻ってこようとするときに、妙に不鮮明だったり足がなかったりすることは読者の方もよくご存知だろう。あるいは荒俣宏の『帝都物語』では、死者の亡霊が、生きていたときの記憶をしだいに失い、暴力的になることも。これらは、肉体という個別性がなくなったときに残るのは共同性そのものだという事情を示している。霊とは、現代でいえば、国家や言語や伝説や貨幣や知識や「故郷」やインターネットのことなのだ。

サステインされたギターの音が会場に充満する。core of bellsのメンバーとは別のミュージシャンが、PA横のスペースでそれを弾いているのが目に入る。ステージ前には、客席を威圧するかのような5本の黒い柱が立ち並ぶ。ステージの後ろのスクリーン3面には、それぞれ「DEATH」「MIX」「DEATH」という文字が投影されている。
開演時間をやや過ぎたところで、フード付きのパーカーに身を包んだ4人のメンバーと、キャップにTシャツ、ハーフパンツといった出で立ちから黒い顔と腕をのぞかせるメンバーが登場し、会場の失笑をよそに5本の柱の後ろに立ちはだかる。黒い顔のメンバーは中央だ。
ステージ両脇のスピーカーからビートが鳴り響く。ときおりノイズを差し挟みながら。そのビートに乗って、メンバーたちが順番にラップしはじめる。内容は、都市伝説、少年のころの記憶、第三者から見れば不分明な規則による二分法、などなど。それぞれのリリックがそれぞれのグルーヴにのっとって展開されるところなど、聞き応えは十分だ。だが、そこで語られる内容が、彼ら個人の経験に基づくものなのかどうかは何の保証もない。
30分を超えたところで、両脇のスクリーンには具体物が映りはじめ、それにつれてラップの内容も変化を見せる。メンバーそれぞれに役割がふられ、安っぽいVシネめいた逃亡と追跡のドラマが幕をあける。社長の秘密を記したノートをふとしたきっかけで手にした平社員・瀬木が、関西の別の組織にそのノートを高く売りつけようと画策、先輩社員を誘って関西に逐電しようとするが、社長はその企みを見破り、瀬木の愛人でもある秘書を連れて、彼らを追いかける……。「人より前にいこうとするものは悪魔に待ち伏せされる」。はたして瀬木は逃げきれるのか?
だが、そのドラマもやはり30分程度であっけない終幕を迎え、再びメンバーはそれぞれの順番でラップしはじめる。ラップ地獄の果てに、黒い顔のメンバーはステージ前に降りて、これまた地獄のようなブレイクダンスをのたうちまわる……。

core of bellsのライヴは、さまざまな創造的文脈を横断するようにして構成されている。「公演」と銘打たれた「怪物さんと退屈くんの12ヶ月」ではそれはより徹底され、怪談、演劇、美術、ダンス、都市伝説、人形劇、ゲーム、ドラマ、CM、お笑い、ヒップホップなど、現代のさまざまな(反)物語装置との接合が果たされる。現場に散りばめられているのは、蝟集する、演奏する、映写する、注文する、命令する、隠れる、死ぬ、甦える、噂する、厳守する、探す、流す、焼く、笑わせる、想起する、遅れる、といった動詞の数々だ。
1980年代までであれば、こうしたメディア横断的なパフォーマンスは、異化という文脈で読み解かれただろう。しかし、彼らの営為は、観客を覚醒させることや、ましてや単なるパロディなどとは決定的に異なる方角を向いているようだ。
あの多彩なパフォーマンスが降霊術に似ているとすれば、それはどこにおいてなのか。パフォーマンスの果てに(あるいは向こうに)霊界が透けて見えるのか。あるいは彼らの挙動そのものが降霊術と相似をなしているのか。いや、彼らの狙いが降霊にあるとするなら、それは霊を可視化/可聴化/接触することであるはずだ。
もちろん、肝心なのは霊や魂の実在を証明することではない。ときにその例証としてあげられるエクトプラズムやラップ音は、すでに霊や魂の実在が科学によって脅かされている時代に見出されたものにすぎない。実をいえば、降霊術そのものも同断である。むしろ大事なのは、見えない霊を感知することなのだ。では、それはどのように行われるのか。
岡本太郎が久高島で訪れたウタキのことを思い出そう。彼がそこで見たものは何だったろうか。部外者からは雑木林の一角としか見えない空き地と石ころ、物質的にはただそれだけだ。だが、そのとき岡本太郎はたしかに霊に触れていた。あるいは霊を呼び出しかけていた。
その石ころの中にはなんら秘密が隠されているわけではない。しかし、その石ころがその空き地に置かれ、ある時節が訪れある人々がある目的でそこに集まるときに、つまりあるルールの中に置かれ、その文脈が顕在化したとき、その石ころは神を呼び出す祭壇となる(それは詩となんとよく似ていることだろうか)。
「怪物さんと退屈くんの12ヶ月」は、この例とは情報量的には正反対にマクシマムだが、おそらく目指すところは同じだ。ここでの降霊の儀式は、主に「置換」という身振りによって遂行される。
11月公演「DEATH MIX DEATH」では、ラップと呪文と物語が、ヒップホップとヴードゥーとVシネとが激しく交差する。そこで問題なのは、「ラップとは何か」や「うまくラップできているか」ではなく、「ラップとはどんなものか」「ラップとは誰が何をするものとされているのか」「ラップがVシネ的物語を語るとき、何が起こるのか」といったことのようだ。ここでは「置換」の機能ぶりが問われているといっていい。 これが儀式であるからには、ある厳格さも要求される(ある大ざっぱさとともに)。ルールには従わなくてはならない。荘厳ささえ漂う一種のオートマティスムが現出する(それはときに笑いをも惹起する)。core of bellsというバンドの要素が別のルールないし文脈の中に置かれることで、そのルールを動かす霊の姿が一瞬かいま見えるのだ。

もちろん彼らが執行する「置換」はこればかりではない。
「DEATH MIX DEATH」では、終幕に至り、中間部の物語で死んだはずの_黒いラッパーが最後に踊り出す。つまり、ここで目論まれているのは、死者をして踊らせることなのだ。参照される枠が交差するとき、不思議な爽快感と笑いの衝動が見るものを襲う。
鳴り続けるビートと少年時代の記憶や陰惨な死をめぐって展開されるラップは、死者を甦らせ、あるいは死者の霊を呼び込むための祭儀の一部にほかならず、他のフードをかぶったラッパーたちは祈祷師、ステージの前で踊っているのはもちろんゾンビなのだ(ロメロではなくハイチの)。
霊の現前に立ち会うためには、前述したとおり、必ずしも降霊術が必要なわけではない。たとえば死者の蘇生はその有力な方法のひとつである(それが現実的かどうかはさておき)。
黒いラッパーが踊りだしたのは、ラッパーがゾンビを演じたのでも、ラッパーを演じたcore of bellsのメンバーがチンピラ社員を演じた後そのままゾンビに移行したのでもない。物語の枠を超えて「ラッパー」が「ゾンビ」に置換されたのである。両者を媒介しているものを三点、くどいようでも確認しておけば、呪文[ラップ]とダンスとブラックネスになる。
一点だけ注意を促しておけば、ここで行われたのは死者の蘇生の儀式であって降霊術ではない。ただし、霊の現前を目の当たりにできる点から降霊術という語にこだわるとするなら、「霊媒なき降霊術」という呼び名がふさわしかろう。霊媒に起こる現象は「憑依」だが、これは「置換」とは似て非なるものなのだ。

core of bellsにおいて「置換」が正当化されるのは、彼らの営為の背後に「人間はみな同じだ」という前提があるためと思われる。それは民主主義的もしくはヒューマニズム的な認識であるというより、ハードコア的ないし遠藤ミチロウ的な認識、すなわち「われわれは虫だ」の方に近い。それは「平等」ではなく、「交換可能性」を示す観念だ。
ハードコアはみな同じだ。われわれもみな同じだ。要素を多少入れ替えたところでたいして変わりはない。それでかまわないではないか。「たいして変わりがない」のなら、細かい「変わり」を作っておけば、それで十分楽しめるだろう。core of bellsがお芝居をしようが、美術をしようが、怪談を語ろうが、お笑いをやろうが、姿を隠していようが、何もかまうことはない。

さて、本文はせっかくウェブに発表されるものなので、ここで以下の動画をごらんいただきたい。

World War Z: Building a Better Zombie Effects Exclusive-Design FX-WIRED

日本では悪評の方が高い映画『ワールド・ウォーZ』(マーク・フォースター監督、2013年)のメイキングだ。この動画は、この映画のモブシーンがほぼすべてCGで作られていることを明かしている。ここに映る人々、いやゾンビたちは、すべて運動をプログラムされたパーティクルである。彼ら全体の動き、またぶつかりあって転げるさまは、すべてシミュレーションと演算の上にできあがったものである。このゾンビたちの振る舞いの奇妙な思い切りのよさも、彼らが魂をもたぬ像であるゆえだ。core of bellsのパフォーマンスと共通する爽快さと愉快さを感じる方もおられるかもしれない。
このゾンビたちはいわば映像によるオートマトン(自動人形)なのだが、実際にこの映像のような状況に追い込まれたとき、われわれは彼らとどの程度違う動きをするだろうか。いや、むしろ彼らとわれわれでは何が違うのか。今やわれわれはわれわれ自身をこんなふうに見ているのではないのか。動いているヒトガタの内側でどんな考えがうごめくかなど、実はわれわれの関心の埒外ではないのか。現今のグローバリゼーション下、使えるものは使い、使えないものはそぎ落とす、といった判断をわれわれがわれわれ自身に対して下しているではないか。
この映像が示しているのは、現代の霊性の一断面だ。それはサイバネティクスと3DCGが世界を覆い、360°カメラを誰もが所有できるようになった世界における「魂なき霊」とでも呼ぶべき事態である。そして、そのメタファーにふさわしいのが、ハードコアであり、ゾンビであることはもはやいうまでもない。

 

須川才蔵(すがわ・さいぞう)
編集者。1962年生まれ。元『ユリイカ』編集長。編集した書籍に、菊地成孔+大谷能生『憂鬱と官能を教えた学校』(河出書房新社)、大友良英『MUSICS』(岩波書店)、柴田元幸監訳『初期アメリカ新聞コミック傑作選』(創元社)ほか。制作した映画に、冨永昌敬監督『庭にお願い』。