03 「 Last Days of Humanity」公演記録・平倉圭氏による批評

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写真:前澤秀登

幽霊のグルーヴ――憑依=参加的不一致

平倉圭

1 オープニング

フロアの中心に死体が横たわっている。潰れた顔、切り裂かれた胴体、飛び散る血――紙製の。トム・フリードマンの紙彫刻死体を思わせる(1)。その紙の間に、本物の人が挟まり、薄緑のダウンジャケットに包まれた小さな腕と、黒いストッキングで覆われた両足だけを覗かせている。

半透明の養生シートが天井から吊るされ、また床に立てられている。養生シートの背後には人影があり、シートを叩いたり、スプレーで水を吹き付けたりしている。間を縫って、背丈程の布製衣装ラックが動き回る。時折中から腕や足がはみだし、「おんどりゃ〜」と怒鳴り声を上げる。フロアの隅では巨大な布団袋ないしガラ袋が人を包んでモゾモゾしている。箱に入ったままの電動ヤスリからコードが伸びている。

客席左後方には、茶色いパーカーのフードを被り、長い前髪で顔を隠したホラー映画的人物がいる。ホラー的人物は時々携帯電話で指示を呟く。「眉間にしわを寄せたまま笑ってください」。すると左前方に投影された青白い映像の中の男が指示に従う。

客席の正面では別の男が飲食店に電話をかけ続けている。「あもしもし、あの予約をお願いしたいんですけど……今日の9時10分……5人なんですけど……」、「あもしもし、すみませんあの予約をお願いしたいんですけど……今日の9時20分……すみません6人なんですけど……吉田……吉田……」、「あもしもし、すみませんあの予約をお願いしたいんですけど……はい……今日の9時30分……はい……人数は7人……大丈夫、大丈夫です……名前は、吉田……」。

10分刻みの予約が延々続く。人数は時々変わる。予約男の背後には、赤い膝丈コートにフードを被り、水色の車が描かれた靴下の上に透明ブーツを履いた女がぴったりついている。背後霊のようだ。

2 退屈

オープニングで示された幽霊的存在はすべて演奏装置となる。演奏されるのは、「退屈」だ。

音楽が鳴る前にも止んだ後にも、時間はだらだらと続いていて、それは複雑でありながらとても退屈で、なおかつ贅沢なものです。そこでは、ステージ脇にうごめく闇や、満員のフロアになぜか空いた一人分のスペースも、音や楽曲と同様に時間のエッセンスの一部と言えるでしょう。(2)

中心に横たわる半紙半人の死体を基底的なドローンにして、予約男の反復的電話とそのすぐ後ろで頷く赤い女の動き、ホラー的人物の指示と映像の男によるその実行、養生シートにスプレーされる反復的な水音、衣装ラックと布団袋のガサガサした動き、それを追跡する撮影スタッフの動き、断続的な怒声、時にブイイイインと唸りを上げる電動ヤスリ……それらの反復的運動/音響が、フロア全体を多層的にリズム化する(3)。

ナラティヴの展開はない。時間はリズム構造の遷移によって満たされ、時に絡み合いの密度を増し、あるいは散漫にほどける方向へ向かう。最後にはほとんど、衰退して無秩序になり、何もない場所へ、「退屈くん」のエントロピックな世界へと降りていく。

3 グルーヴ

ホラー的人物の「歌を歌ってください」という指示に続き、松田聖子『Sweet Memories』の合唱がばらばらと始まる。「……あなたをー 見たとーきぃー じぃーかーんー だーけぇ 後もどーりぃしたのー……」(4)。BPM=約50(ゆっくり)。おもむろに2人の男女が左隅の陰に現れ、〈右腕を7回前に突き出し、両腕を1回上に広げる〉という応援団風の8拍子動作を無音で始める。応援団のビートは合唱に少し遅れ、BPM=約45でずれ続ける。

合唱が終わる。男の予約電話と、応援団の無音8拍子だけが残される。散発的に映像中の男がビートボクシングする。養生シートに速いスプレー音の反復が響き、また止まる。散漫な時間が続く。

不意にドラムが鳴り響く(BPM=約110)。女の録音声が再生され、謎の言葉を語る。「あなたは何に目を凝らしたか……どこまでが何か分からなくならないように……目印を……」。予約男がギターを手にとり、轟音を刻み始める。ホラー的人物の長いデス声がその間を縫っていく。しだいに照明が暗くなる。念仏的合唱が始まる。「みぎ・むぅー・けぇー、ひだ・りむ・けぇー、あっ・ちむ・けぇー、こっ・ちむ・けぇー、どっ・ちも・ねぇ!……」 3拍子×5でループする念仏的合唱。ドラムとギターが重なる。再び養生シートに速いスプレー音。女の録音声は続く。ペンライトが点滅する。応援団は隅で無音8拍子を続けている。多数の反復がずれを伴いながら重なり合い、フロア全体をうねるような複雑なリズム構造に変えていく。体が揺れ始める。グルーヴだ。

4 PDs

2つ以上の微妙にずれたリズムが互いを拘束しあう時、グルーヴが生まれる。民族音楽学者のチャールズ・カイルは、グルーヴを生むこのリズムの「ずれ」を、「参加的不一致 Participatory Discrepancies(PDs)」と呼んでいる(5)。演奏者たちはこの不一致に巻き込まれるように音楽行為に参加し、かつ各自がそれぞれの不一致を維持して、安定的同期から繰り返し身を引き剥がすことで、グルーヴを推進する(6)。

このリズムの不一致は、聴く者の身体にも強く作用する。私見では、リズムのピークのずれは、聴く身体の各部位にずれて立ち上がるパルスを作り、身体に「しなり」または「ぶれ」を与えて踊らせる。聴く‐踊る者はさらに、音楽に乗りながら、音楽とは微妙に異なるリズムを身体で刻むことでグルーヴを増幅することができる。感覚的に言えば、音楽の振動周期から身を引き剥がして別の振動周期に入る時、非聴覚的な擦過面のようなものが現れる。その擦過面に身体を繰り返し擦り当てることで、グルーヴは高まっていく。

core of bellsの「演奏」を構成する幽霊的存在もまた、不一致なリズムの重なりによる特殊なグルーヴを生み出している。幽霊がグルーヴする。密度の高い演奏においては言うまでもなく、予約電話・間歇的な唸り声・布団袋が立てる乾いた音響等々からなる散漫な時間においても、私の身体にはある種のグルーヴ感が残り続ける。私は揺れながら、それら緩慢なリズムのすべてに擦り当たるような一つのリズムを探っている。そのような探り当てが可能であるような仕方で、演奏は希薄化される。

5 PPDs

ただしここでは、「参加的 participatory」という語はそのままではそぐわない。なぜなら幽霊的存在たちは、自発的に演奏しているというより、外部の指示や力によって動かされているようだからだ。映像の男は、ホラー的人物の指示でビートを刻む。都市伝説的な「赤ずきんちゃん」を思わせる赤コートの女は、予約男を背後から呪い、強迫的に電話をかけ続けさせているように見える。自発的ではない複数のリズムが、互いにずれて重なり合う。

この幽霊たちのグルーヴを構成する非内発的な「ずれ」のことを、仮に「憑依=参加的不一致 Possessory-Participatory Discrepancies(PPDs)」と呼ぶことにしよう。幽霊の演奏は直に参加的ではない。幽霊は他の事物に憑依し、憑依された事物が内発性を欠いたまま不一致なリズムを刻むのだ。

観客の身体もまた、この憑依のプロセスから免れてはいない。演奏を縫って聞こえる録音声の謎の指示――「大きな曲がりくねりをつくる以外のやり方で 地平線を 持ち上げてください……」、「近くにある沼に 水が 淀んでいるので 淀みに 新しい軸を 通してください……」。指示は観客の頭の中に或る光景を立ち上げ、次いで不可能な仕方でそれを裂いていく。理解の道筋は、分岐の予感を示しながら内側から砕けていく。

あるいは不気味に歪んだ子どもの録音声が言う。「……眉間ニシワヲ 寄セタママ 笑ッテェイテクゥダサイ……」。怒る眉間と笑う口元が分裂する。私の統一的な 「内面」は消滅し、不一致な断片へと裂かれてしまう。これらの分裂的指示は、いわば思考と身体を内側から引き裂くPPDsを生み、破壊的なグルーヴを引き起こす。不一致化して揺れる思考と身体の諸断片は一種の臼となり、互いの意味と振動を磨り潰しあう。そうして私は、「空っぽ」になる。

6 降霊術

憑依的身体の「空っぽ性」は、本公演の明示的な問題をなしている。公演のフライヤーには、ナチス・ドイツの制帽を被る4体の衣装ラックが歩く写真が載っている(7)。そのうち3体は内部の空洞を見せびらかし、もう1体も、4着の上着と引き出しだけを中に示して肉を持たない。同様の衣装ラックは、本公演の主要な幽霊的存在として登場している。

中味の詰まった人間を磨り潰し、箱や袋で包んで吸収し、空っぽでペラペラな存在に変えること。フロアに横たわる半紙半人の死体もまた、充実した立体的身体からペラペラな面的身体への移行形態を示すと考えることもできるだろう。「人類最後の日々 Last Days of Humanity」とは、そんなペラペラな「空っぽ性」へと向かう行程なのだろうか。

空っぽな存在たちによる「演奏」は、最後にはほとんど享受不可能なレベルにまで希薄化されていく。2度目の密度の高い演奏が終わり、照明が完全に落ちるとき、応援団の無音8拍子はいつの間にか止み、予約電話も唸り声も失われ、演奏途中でホラー的人物によって「殺された」撮影スタッフの死体を布団袋に詰めようとするガサガサした荷造り音だけが暗闇に延々響き続ける。公演は、終了を告げる前に、長い「片付け」の時間に入ってしまったかのようだ。客席は暗闇に放置されている。

私はこの空虚な時間を「踊れる」とどこかで感じている。だが同時に、腕時計を見る欲求も感じ始めている(そろそろ終わりだろうか? いつまで続くのだろう?)。――退屈が降りてくる。退屈とは、物の時間と私の時間が不一致化し、物の時間の方に引き留められることだ(8)。

長い「片付け」の時間が過ぎていく。闇の中、ホラー的人物が不意に立ち上がり、使い捨てカメラを客席の方に向ける。ジージージージージ(フィルムを巻き上げる音)……パシャ。強いフラッシュが光る。約20秒間の沈黙と闇。ジージージージージ……パシャ。強いフラッシュ。繰り返し。BPM=約3で起こる眩しい光が、私をその都度、パチンと面的に圧縮する。身体が再び揺れ始める。

トランスしたくて揺れているのか、既にトランスしているから揺れているのか。いったい誰が・何のために労働しているのか? 私はジョン・ケージの『4’33”』に熱狂するようなおめでたい聴衆であるかのように自分のことを感じている。だが同時に、既に身体が踊り始めるのを感じている。退屈な「不一致」の引き延ばされたグルーヴ。

この戸惑いが、おそらく本公演の経験のいちばん深い場所にある。私は「降霊」させるべきなのか、そうではないのか。私は私の中に、完全には私のものでない気配の起こりを感じている。それが、私のゴーストだ。ゴーストは部屋の隅や扉の奥に潜むのではない。それは私の内から生えてくる。ゴーストとは、私を内から引き裂くPPDs の担い手のことだ。私はこのゴーストを増幅(アンプリファイ)してやるべきなのだろうか? ――それは詐欺的な降霊ではないと、如何にして私は知るのだろう?

(1) Tom Friedman, Untitled, 2000.(参考画像:http://matome.naver.jp/odai/2135847937254020801/2135847964954048103

(2) core of bells「「怪物さんと退屈くんの12ヶ月」について」より抜粋、http://www.12months-coreofbells.biz/#!about/cdkw

(3) 音響系の即興演奏、「Jホラー」映画、公演名「Last Days of Humanity」が由来するゴアグラインドの無差別ノイズと滑稽性、指示と反復で構成されるタスク的ダンス、日用品を怪物的にフィギュア化するフリードマン以降の現代彫刻等がコンテクストとして透ける。一部のコンテクストについては、core of bells「我々は何故隠れるに至るか」、『ドキュメント|14の夕べ』(東京国立近代美術館編、青幻舎、2013年、262-266頁)参照。本公演は「14の夕べ」公演と同じく、メンバーが観客から姿を消す「隠れるサーガ」(同、263頁)の系譜にあると考えられる。なお、当日のアフタートークでは以下のアルバムが言及されたと記憶している。Last Days of Humanity, Putrefaction in Progress (2006/参考音源:http://www.youtube.com/watch?v=e4BwBT-8Hvw)アフタートークそれ自体も「演奏行為」の一部だ。

(4) この陳腐なヒット曲の歌詞が、時間がほどかれ‐束ね直され‐またほどかれるという本公演のプロセスに自己言及している。人間は束ねられた無数の時間であり、それが完全にほどかれるとき人は死ぬ。公演は全体として、中央に横たわる死体が見る「走馬灯」のようでもある。その印象は公演最後の、誰のものともつかない、ありふれた想い出写真の映写によって強められる。アフタートークでメンバーは、中学・高校時の想い出を語り、時間のほどき‐束ね直しを反復する。

(5) Charles Keil, “Participatory Discrepancies and the Power of Music,” Cultural Anthropology, Vol. 2, No. 3 (Aug., 1987), pp. 275-283. カイルは「不一致discrepancy」の語源であるラテン語discrepareが「異なる音を立てる」を意味することを強調している。「異鳴」とでも訳せるかもしれない。以下も参照。Charles Keil, “Defining “Groove”,” PopScriptum, 11, 2010, http://www2.hu-berlin.de/fpm/popscrip/themen/pst11/pst11_keil02.html 複製技術を使用したグルーヴについては以下を参照。大谷能生「二つになる一つのもの(グルーヴとは何か?)」、『ジャズと自由は手をとって(地獄に)行く』、本の雑誌社、2013年、8-20頁。

(6) 参考例:グラル・ミュージックにおけるリズムの揺れと不一致(https://www.youtube.com/watch?v=r7LOhtZzR-Y)。3人の足にも注目。

(7) フライヤーの画像:http://coreofbells.biz/wp-content/uploads/2014/02/kaibutsu03.jpg 元写真にはアドルフ・ヒトラー、マルティン・ボルマン、ヘルマン・ゲーリング、ヴィルヘルム・カイテルが写る(参考画像:https://www.pinterest.com/pin/472033604664007137/)。ここに「演奏のファシズムを批判的に解体する」といった問題意識を見ることは難しくないが、そのことは本公演では前景化されない。

(8) 退屈のこの性格については以下がよく教えてくれる。國分功一郎『暇と退屈の倫理学』、朝日出版社、2011年、198−245頁。

平倉圭
1977年生まれ。芸術論/知覚論。横浜国立大学教育人間科学部准教授。芸術制作における知覚‐行為システムの働きを分解的に研究している。著書に『ゴダール的方法』(インスクリプト)、共著に『ディスポジション:配置としての世界』(現代企画室)、『美術史の7つの顔』(未來社)、論文に「多重周期構造――セザンヌのクラスター・ストローク」(『ユリイカ』)など。

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