05「重力放射の夜」公演記録・椹木野衣氏による批評

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写真:前澤秀登(※トップ画像のみスタッフ)

ついたてと巻き物

椹木野衣

開始時刻を一時間まちがえて会場に入ってしまったのだ。開始時刻の十分前に着くつもりだったから、開演から一時間以上も前だった。とうぜん客はまだ誰もいない。受付もできていない。一瞬、僕は日にちを間違えたか? と不安になり、入ってすぐ係りのような人に「今日、コアオブベルズですよね?」と聞いていた。するとその人は怪訝そうな顔で「ええ」と答え、そばに置いてあったチラシを渡してくれた。そこにはたしかにコアオブベルズとある。しかし公演名が違う。「ウワサの眞相」とある。僕はさらに焦った。たしか「重力放射の夜」だったはずだ。もしかすると日にちを(一時間どころか)一ヶ月まちがえたのかもしれない。そう思って足が止まった。すかさずメンバーの方が声を掛けてくれ、挨拶もそこそこに席に誘導してくれ、ことなきをえた。

正直ほっとした。しかし客席には誰もいない。コアオブベルズって、こんなに人気がないのか。と僕はさらに勘違いを深めた。しかしそこのころになってようやく少し気が落ちついた僕は、薄暗い周囲ではまだ音出しや進行の最終チェックが行われていることに気付いた。「えー、メンバーの方メンバーの方、バーカウンターの前は横切らないようお願いします」というような声を背に聞いた。そこで初めて気付いた。開場前だったのだ、と。道理で客がいないはずである。しかしそのせいでなかなかできない体験ができたのも事実だ。ある意味、ふだん見ることができない様子がそのまま転がっている。どこかから「今日のライヴ、スーパーデラックス史上でも最大レベルの音量なんじゃないかな」というような会話もよく聞こえてくる。なにしろフロアのど真ん中にひとりで座らされて、そのまわりだけ誰もいないのだ。ただし、席にはバッチリ照明が当たっているので、逆に薄暗い周囲からは僕だけがくっきりと浮かび上がっていたはずだ。やがて開演直前には座席は来場者でいっぱいとなった。

実はそのとき、すでに僕はこの公演について二本の文章を書くことになっていた。一本はむろん、いま書いているこの文章だ。で、もう一本はというと、産経新聞が出している若者向けの日刊紙『EX』に月一回のペースでの寄稿を頼まれている展覧会レビューである。展覧会レビューと言っても題材は一任されている。さいわいコアオブベルズのステージは一種のアート・パフォーマンスとも考えられる。とくにいま継続中の「怪物さんと退屈くんの12ヶ月」はひときわコンセプチュアルな傾向が強いので、展覧会の枠で取り上げても問題ないと判断し、担当の記者の方に相談した。それで構いませんとの返事。その結果できたのが、次の文章である。地の文章と区別するため「 」で括っておく。また末尾に紙面からウェブに転載されたURLを付す。

 

「コアオブベルズは、なにものなのか? と訪ねられると、しばし返答に困る。ロック・バンドと言えばそうなのだが、かれらのライヴを見て『なるほど』と納得する者は、さぞかし少なかろう。

たとえば先日、私が六本木で見た『重力放射の夜』と名付けられた公演では、一時間半に及ぶステージにはついに、メンバーは誰ひとり姿をあらわさなかった。むろん、演奏は行われた。それもまったくの切れ目なしに。しかしそれは、はたして一曲なのだろうか? クラシックの組曲のように起承転結がはっきりとあり、緻密に構成されているわけではない。耳をつんざく重金属の塊のようなサウンドが、観客を囲む三方から、ひたすら放射され続けるだけなのだ。

まちがいなく演奏をしているのに、その姿が見えないのは、ステージを囲んでコの字状に黒い壁が立てられているからだ。メンバーはその背後で演奏しており、椅子に座った観客からは、その視線の向かう先を完全に邪魔されてしまっている。けれども、かれらが演奏する様子を見ている者が誰もいないわけではない。客席を囲む壁に沿って、一段だけ高くされた通路がぐるりと設けられており、記録のためだけにしては妙に多い人数のカメラマンたちが、そこを行き来しながら、バンドの演奏を自由に撮影しているのだ。

もしかしたら観客も、カメラマンたちと同じように椅子を立ってそこに昇り、演奏の様子を目の当たりにしてよかったのかもしれない。けれども、そうする者はひとりもいなかった。みな一様に、舞台上でいま、なにかが起きているかのように、90分ものあいだ、前方を見続けるばかりだった。なぜ、そんなことができたのか。

それは、ステージにはひとが不在であるにもかかわらず、ライティングだけは、そこに誰かがいるかのように工夫を凝らされ、終始、途切れず続けられていたからだろう。

そういう点では、この公演でコアオブベルズが来場者に感じさせようとしたのは「気配」かもしれない。見るものがないからといって、感じるものまでなにもないとは限らない。日常ではとうていありえない大音量に全身を包まれているからこそ、かえって、はじめて感じることができることだってあるだろう。場合によっては、錯覚や白昼夢のように、ないはずのものが、蜃気楼のように浮かび上がってくることがあっても不思議ではない。

それは、私が足を運んだ一夜に限らない。実は本公演『重量放射の夜』は、かれらの名で、一ヶ月に一回のペースで、計一年にわたって催される連続企画『怪物さんと退屈くんの12ヶ月』のうちの一夜(第五回)だったのである。

全体を通したタイトルにあるとおり、この企画が主題にしているのは、「怪物」と「退屈」という、およそ相対立するふたつの要素の共存関係だろう。もしも本物の怪物に出くわしたら、誰も退屈する者などおるまい。とうぜん身を守るのに必死になるはずだ。けれども、怪物が実体ではなく、気配のようなものにすぎなかったとしたら、どうだろう。まったく反対に、自分は平気だとばかりに、かえって平静を保とうとし、がんこに退屈さえ装ったりしないだろうか。

ただし、それは緊張感ある退屈にほかならない。『重力放射の夜』も、見るものがない以上、退屈といえば退屈ではあった。しかし、それは単なる退屈ではなかった。いつ、なにが起こるかしれない、極度に緊張した退屈なのだ。ただならぬ気配が、決してそれを弛緩したものにすることを許してくれない。そこでは、影さえもが怪物に見えてくる。

怪物と退屈を共存させるために、かれらはあらゆる手を尽くす。ゆえに、ステージは一回ごと似ても似つかぬものとなり、演出も演奏もまったく様変わりしてしまう。バンドとはいっても、演劇やパフォーマンスはもちろん、音楽や文学、美術の要素も適宜、盛り込まれる。他方、不要なものは音楽の鑑賞に必須なものであっても、容赦なく削り取られる。冒頭でかれらのことを『ロック・バンド』と紹介するのに躊躇したのは、そのためだ。

かれらはこの手法のことを『退屈な降霊術』と呼ぶ。そして『現在の僕たちの生活をどこか反映した普遍に届くことと信じています』と記している。たしかにいま、私たちは様々な見えない恐怖に24時間、囲まれて暮らしている。コアオブベルズが仕掛ける12ヶ月は、そのような事態を、たしかに反映している。」

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ちなみに、いまURLで示した掲載時の文章の転載と、僕が校正紙のうえで文章の手直しをした先の最終チェック原稿とは、実は微妙に違っている。実は校正紙のやりとりで少々手違いがあって、直しが完全には反映されなかったのだ。そのことが判明したのは前日の夜だったので、日刊紙ゆえもう修正はまにあわない。しかし僕はそのままでかまわない旨、先方に返答した。直しは多岐にわたったものの、それは細部の文体にまつわる修正にすぎず、わかっていた誤植は入稿の直前に校閲の方の眼で正されていたからだ。ほっとした。

けれども、僕はこのことを少し「おもしろいな」とも感じた。そもそも僕は「重力放射の夜」を最初から開演時間で勘違いしていた。けれども、そのおかげで僕はきっちり時間通りに入場すれば見られなかったはずの光景を見た。また、いつも通り入稿されていれば本来お目に掛かれないはずの自分の文章にもめぐりあった。どちらも、もとの自分のようでいて、やはりどこかが違う。だから僕は、こうしたいくつかのすれ違いからなる階層を、この批評文にも同様に反映してみたいな、と感じたのだ。

そしていま、それを収めるための地の文章を書いている。そのなかに「 」で括られた「本来」の文章があり、それに続いてURLから飛ぶもうひとつの、至極似ているが微妙に違う双子のような文章が別のサイトに出ている。両者を読み比べるほど暇な人がいるとは思えないが、文の細部などよりも掲載される媒体の「風景」がまったく違っている。いま実際にそちらに飛んでみた人は、コアオブベルズの公演について書かれた文章が、およそふだんかれらの公演が置かれるはずもない「周囲」によって包囲されていることに気付くはずだ。広告だから見るたびに違っているかもしれないが、いま僕が見ている画面ではヘッドの部分に「緊急特集 肝機能異常は今や3人に1人!? 肝臓は異常があっても自覚症状が出にくい臓器と言われています。『自分はまだ大丈夫』と油断は禁物です。今から間に合う対策とは? 提供:カゴメ」とある。また4月20日に行われた「重力放射の夜」の公演風景の写真の右には、ずっと大きなサイズで「トムソン・ロイター・アイコン あらゆる金融情報を いち早くお手元に 無償トライアルはこちら>」とある。また最下部には「HISソウル三日間1.68万円 スーパーサマーセール開催! 6/7-23 人数限定の特価商品が日替わりで続々登場」とある。まるで「怪物さんと退屈くんの12ヶ月」をかたちづくる異質な窓同士からなるパノラマのように。

こうした数々の食い違いや衝突を経たあとで、僕がこの公演についてさらに文を費やす必要があるとしたら、それは公演が終わってからの、もうひとつさらに階層を違えた風景についての批評ではないかと思う。「重力放射の夜」そのものについては、上記の「 」内の文や『EX』紙のウェブ上で読んでもらえればよいことなので、ここでは繰り返さない。ただ、以下は先の文の末尾からの続きとして読んでもらえたらと思う。

「さて、こうして公演が終わったあと灯りがつくと、『今夜の公演はこれにて終了』の旨アナウンスがあった。なにか恒例の企画がこのあと続くようだったが、それはもう『重力放射の夜』とは無関係のようだったので、僕は会場をあとにすることにした。が、やはり黒い壁の向こうは気になっていた。すっと立つと、カメラマンたちが足場にしていた箱上の回廊に足を掛け、なかを覘いてみた。

すると、想像以上に人がたくさんいた。そうか、こんなに大人数で演奏していたのか。僕はてっきり、5人のメンバーだけで、あれだけの音を出しているものと思い込んでいたのだ。途中、ドラムの音が前方に移ったり左右に戻ったりしていたが、それはセットだけ置いておいて、メンバーが移動しながら演奏を継続しているものと勝手に想像していた。実際には、メンバーに加えて多くのゲストが力を貸し、あれだけの音の放射を可能にしていたのだ。さもありなん。

けれども僕は、それを知ることで納得すると同時に、少なからず失望もした。音圧のわりに人数が多かったからではない。メンバーがまったく見えないライヴという局面がいくら異常な局面であったとしても、実際の壁の向こうには、達成したあとの高揚とおつかれさま感で充実のふだん見慣れた風景が広がっていたから。僕はそれを台に乗って、少し上からなにか狙撃兵のような視線で見た。なんら見るものがなかった公演のあとで、僕の眼は見るものを欲しがってもいたのだろう。必要以上にじっくり見ていた。誰も僕から−−−−しかも批評的に−−−−見られているとは気付いていないようだった。

無言で誰にも声を掛けず階段を昇って六本木の夜の街に出ると、腹が減っているのに気付いたので、たまに顔を出す霞町の鮨屋に向かった。店主と今夜のイベントについて話していると、内容はまったく解さないようだったが、その店にごくたまにスーパーデラックスのオーナーが夫妻で顔を出すことがあるという。そのとき僕は干瓢(かんぴょう)巻をつまんでいた。そして、絶妙の味で煮込まれた干瓢を取り巻く米粒の群れと黒い海苔をじっと見ながら、いろんなところで橋渡しをしながら総体として異物を繋げていく柔軟な一本の紐のような干瓢こそ重力放射の夜にふさわしい、と思った(末尾の括弧はなし)。

椹木 野衣 Noi Sawaragi

1962年、秩父市生まれ。多摩美術大学美術学部教授。同志社大学文学部文化学科を卒業後、東京を拠点に批評活動を始める。最初の評論集『シミュレーショニズム』(増補版、ちくま学芸文庫)は、90年代の文化動向を導くものとして広く論議を呼ぶ。また同時に村上隆やヤノベケンジ、飴屋法水らと挑発的な展覧会をキュレーション。
主著『日本・現代・美術』(新潮社)では日本の戦後を「悪い場所」と呼び、わが国の美術史・美術批評を根本から問い直してみせた。他に1970年・大阪万博の批評的再発掘を手がけた『戦争と万博』(美術出版社)など著書多数。
近年は岡本太郎の再評価や戦争記録画の再考にも力を注いでいる。2007年から08年に掛け、ロンドン芸術大学TrAIN客員研究員として英国に滞在。

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