写真:前澤秀登

 

12レールと国境、トム・クルーズとアバターの盆踊り

樋口泰人

 

目を瞑りながらの足踏みは難しい。身体が勝手に前後左右にぶれる。気が付くととんでもない場所に立っている。一度試してみるといい。足の裏にいくら神経を集中させてもダメだ。自分がいかにいびつな感覚とともに動いているかがよく分かる。大勢でそれをやるとぶつかり放題である。こちらの意志に関係なく、誰かや何かに触れる。

エルヴィスには双子の兄がいた。生まれた時にはすでに亡くなっていて、エルヴィスはふたり分の人生を生きることになった。もちろん実際にどうだったのか知る由もないのだが、エルヴィスの闇は兄の闇だとか何とか、そんな妄想を膨らませることはできる。だからエルヴィスが目を瞑ると兄のステップになる。あのエルヴィス独特の爪先立ちのステップは、生まれながらに姿を消した兄のものなのだ。だからエルヴィスのロックンロールは特別なのであり、他の誰にも真似できない。

古い記憶で申し訳ないのだが、35年ほど前に発表された漫画、森脇真末味の『緑茶夢(グリーンティードリーム)』の主人公、ロックバンド「スラン」のボーカリストはステージ上で緊張し、歌えなくなる。そんな時、彼はハイヒールのサンダルだったかを履くことにする。ハイヒールなど履いたことなどなかったために、一歩踏み出すたびに彼は転びそうになり、ステージ上で転んではまずいと、彼の意識は歌や演奏ではなく足元に集中するようになる。そのことで彼の緊張は解け、ステージは大成功。普段の自分ではない足元が、彼のロックンロールを作ったのだ。

ギタリストのフレッド・フリスとチェリストのトム・コラのふたりが作るスケルトン・クルーは、ふたりが敢えて同時にいくつかの楽器を演奏することを前提とするバンドである。しかも同時に演奏する複数の楽器は、ひとつのアンサンブルを形成するのではなく、できる限りそこからずれていこうとする。自分の身体がひとつの目的に向かって統制されていくのではなく、その逆、自らを制御しようと働くシステムを一旦留保し身体全体を何かに預けるというか投げ出すことによって、しかしそれでもそこにはフレッド・フリスとトム・コラという絶対的なひとつの身体があることによって、音楽を生み出す。作るというより何かに導かれるように、しかしその導き通りにはうまくできないことによってようやく生まれて来る音楽が、そこにはあった。

ジェリー・リー・ルイスの伝記映画『グレート・ボールズ・オブ・ファイア』は、幼いジェリー・リーが線路の向こう側の黒人居住区にあるクラブに行って、といっても子供だから中に入れるわけもなく、それに白人だからそんなところにいるのが見つかったらどんなことになるのかおそらく子供心にもわかっていたのだろう、だからこっそりと、誰にも見つからないように窓から中を覗き、中ではピアノ・スリムだったかのディープでワイルドな演奏が繰り広げられていて、そこはまぶしい黄金の輝きに包まれていた。そんなシーンから始まっていた。

以来ジェリー・リーの心にはまっすぐと線路が引かれることになる。その片側は白人たちの世界、反対側は黒人たちの世界。ジェリー・リーはその両方を行ったり来たりしながら音に触れ神に触れ悪魔に触れてきたのだが、時折火の玉となってそのレールを暴走する。白人でも黒人でもない火の玉は、映画の中では時に水爆実験の映像となり、ジェリー・リーの視界に、世界の終わりの風景を焼き付けることになる。線路の行く末は天国でも地獄でもなく単に世界の終わりだからこそ、天国の輝きと地獄の業火がジェリー・リーの心を苛み続ける。

目を瞑っての足踏みによって我々はどこに連れて行かれるのだろうか。そして我々の心にはまっすぐな線路が果たして走っているのだろうか。幼い日に観た、今でも身を焦がす黄金の輝きを右側に、その輝きこそが地獄の業火なのだ、だからわれわれは天国の門を目指すのだと断言する神の世界を左側に隔てる境界線としての線路。目を瞑っての足踏みは、もちろん線路を踏み外しっぱなしである。われわれは否応なしに境界線を踏み荒し、神も悪魔もなきものにする。

だが、そこには神と悪魔がいるのではなく、鬼と罪人がいるだけなのだと、コア・オブ・ベルズは言う。六本木スーパーデラックス。いや西麻布なのか? いずれにしても普段はライヴのスペースとして使われる地下のそれなりに広い空間は黒沢清の映画並みの半透明のビニールシートでいくつもの部屋と通路に区切られて、視界は悪い。ただただ言われるがまま。これはゲームであると宣言された。ルールも執拗に説明された。ルールの説明だけでゲームもしないまま終わってしまうのではないかとさえ思われた。

そのルールによれば、世界は「鬼」と「罪人」に分かれる。強さで言えば、鬼の方が罪人より強い。罪人は鬼に見つからぬよう、いくつもの部屋の中で鬼のふりをする。そしてもし見つかった時は秘密のワードを出せば助かるし、逆に鬼を追い詰めることもできる。そのワードを探すために、区切られた各部屋を回ることになるのである。そして夜の時間になるとすべての参加者は目を瞑り足踏みをして、判定を待つ。その時、鬼に見つかった罪人はゲームから脱落するし、一方、秘密のワードを出された鬼も脱落する。どちらの方が数多く残るのかという生き残りゲームのようなものだが、曖昧な記憶とともに描いているので何かが間違っているかもしれないし、大事なことを書き落としているかもしれない。

ポイントは、参加者が、自分が鬼なのか罪人なのかを他者に悟られないために、鬼は罪人のふりをしたり、罪人は鬼のふりをしたりするということだ。強いはずの鬼は、秘密のワードを持った罪人に見つけられないように、自らも秘密のワード探しに参加することになる。罪人は鬼のふりをし鬼は罪人のふりをしつつ、しかし彼らが誰であるかという判定はすべて他人の視線に預けられる。彼らが誰のふりをしようといくらそれをうまく演じようと、彼らのことを「鬼」や「罪人」と決める他人の視線をコントロールすることはできないし、その視線自体もまた根拠のあるものではなく恣意的な不確定さの中に中刷りにされている。その偶然と気まぐれに逆うことのできない世界がそこに誕生するというわけである。だからその偶然に身を任せる、そんな対応の仕方もできる。

だがもちろんことはそう簡単ではない。何しろあれほど執拗に説明されたルールは、主催者の側からなし崩しに破られていくのである。なんだかわからん。とにかく誰もが鬼のふりをしたり罪人のふりをしたりしつつも、ビニールシートで区切られた狭く半透明な空間の中をグズグズと移動しては秘密のワードを捜し、そのうちに夜を迎え、会場内も暗くなり同時に自分たちも目を瞑り足踏みをして、あらかじめ配られている自分が鬼なのか罪人なのかが書かれた軍手をはめた腕を前に差し出すだけ。各部屋の中にいる判定者がそれを確認しつつひとりの鬼を指名して、その指名された鬼が、自分が思う罪人を指さして、指された人間が鬼なら何事もなし、罪人ならその罪人が秘密のワードを持っているかどうかでその罪人の運命が決まる。

目を瞑っての足踏みの間にそんなことが行われているはずなのだが、夜が来るたびにひとつひとつ部屋がなくなっていくから、各部屋の人口密度が次第に上がる。だからその作業に時間がかかる。昼の時間帯の部屋と部屋を巡る移動も人だらけで身動き取れない。その各部屋を見渡す中心の高台には、1台のドラムセットが置かれている。盆踊りの櫓のような感じだ。誰が鳴らすではないそのドラムは、だが誰かが鳴らしているのだということは、次第に時間が延びるばかりの目を瞑っての足踏みの音が教えてくれる。

しかしこうやって目を瞑って足踏みをしていると、なんだかゾンビになったような気分になる。生きているのか死んでいるのかよく分からない。それはそれで気持ちのいいものだということもわかる。いずれにしても目を瞑ったままあまりに変なところに行かぬよう、足の裏に神経を集中させる。しかしさせようとすればするほどボーっとしてきて気が付くと先ほどまでの足の裏の感触がない。後戻りはできない。もちろん後も先もない。背中にあたる半透明のビニールシートの感触とか、周囲の人たちとの触れ合いだけが、今ここに自分がいるということの証でもある。そしてその感覚がふと消える。

足音だけが聴こえる。そこからすでに鬼でも罪人でもなくなった曖昧な鬼や罪人たちが漂いだす。先ほどから私の肌に触れているのは隣の誰かではなく、その曖昧な鬼や罪人たちのようでもある。足音には彼らの足音も交じっている。しかしどれも楽しそうに聞こえるのはなぜなのか。「鬼」とか「罪人」というイメージからは程遠い軽やかな響きがする。しかしその軽やかさに似つかぬ私の身体のぎこちなさ。アバター化したばかりのアバターの居心地の悪さとともに、わたしはその軽やかな足音を聴く。おそらく私の足音も、そんな軽やかな音を立てていることだろう。

足音が軽くなると心も軽くなる。ああ、なんか自己啓発スクールのメッセージのようだがまあそれはそれでよし。ぎこちないからだがレールを踏み外し、コントロールしようとしてもうまくいかず、踏み外したり元戻りしたり、踏み外すことを予測してその踏み外しの逆をしようとすると予測が外れ普通の一歩を踏み出すものだから、結果的にあらぬ方向に身体がぶれてやはり踏み外す。だからと言ってすべてその踏み外しに身を任せてしまうと事態はさらにひどいことになる。閉じられた瞼の暗闇の視界は常に良好にしておかねばならない。アイズ・ワイド・シャット。

あの映画のトム・クルーズもこんな状態だったのだろうか。ありえぬ事態に身体は言うことをきかず、そのコントロール不能の自分の身体と対話するうちに心は軽やかになり、頭は冴え、視界が開けていく。だとするとそれ以降の彼のさわやかな迷走と奔走のフィルモグラフィは、まさにこの暗闇の視界の故であるだろう。彼の前にはまさにどこでもない場所と時間が広がっているのだ。目を瞑って足踏みするトム・クルーズ。その足音がスーパーデラックスに響いていた。

もちろんそれはエルヴィスのつま先立ちのステップの音でもある。そこには天国と地獄とがあるのではなく、単なる暗闇。世界を二つに分ける線路ではなく、いくつもの部屋を作りつつ結局のところすべてをひとつに開いてしまう半透明のビニールシートがあるだけだ。この半透明の幕を纏いつつぎこちなく世界と付き合い、クラゲのように生きるアバターたちがそこにいる。眠るわたしと動くアバターに分けられるのではなく、その半透明の幕によってわたしは起きながらぎこちなく動くクラゲとなる。

われわれはクラゲであると、黒沢清の『アカルイミライ』では宣言されていたではなかったか。コア・オブ・ベルズによってクラゲ化したわれわれは、だから今「われわれはアカルイミライである」と宣言してみようではないか。動きぎこちなくコントロール不能ででも諦めているわけではなく心は軽やか視界は良好。エルヴィスやトム・クルーズとともに生きる。爪先と足裏に魂を、半透明のビニールシートに愛を込めて。

 

樋口泰人(ひぐち・やすひと)
ビデオ、単行本、CDなどを製作・発売するレーベル「boid」を98年に設立。04年から、東京・吉祥寺バウスシアターにて、音楽用のライヴ音響システムを使用しての爆音上映シリーズを企画。さまざまなジャンルの映画を爆音上映してきた。08年より「爆音映画祭」を開始。現在は日本全国で爆音上映を展開中。批評集『映画は爆音でささやく』(boid)も発売中。その他の著書に「映画とロックンロールにおいてアメリカと合衆国はいかに闘ったか」(青土社)など。