写真:前澤秀登

「ここより永遠に」講演記録

文=伊藤亜紗(いとう・あさ)

はじめに闇があった。それは奇妙な闇だった。昼間の世界から、方向感覚だけが抜き取られている。つまり明るい闇。ものの形は見えるのだが、どっちが前でどっちが後ろでどっちが右でどっちが左か分からない。ライブ会場なら、ふつは演奏が行われる場所が「前」と相場が決まっているが…。
中央にステージ(①)、そのまわりを取り囲むように客席(②)、さらにそのまわりを取り囲むように15の「惑星」(③)。「惑星」と思ったのは2メートル四方のステージ台なのだが、それぞれの上に楽器(ベース、ギター、ヴィオラ、ドラム…)や楽器でないもの(ポテチの袋、酒、あずきの入ったたらい、自転車)がひとつずつ置かれている。そのさらに外側、というか両脇には再び雛壇状の客席(④)があり、背中を壁に接している。つまり同心円をなす①〜④の4つの円形の軌道があり、この軌道上に楽器と観客が交互に配置されているのだ。方向感覚を失わせる「明るい闇」の正体は、この目の回るバームクーヘンのような構造のせいだったのである。
しばらく闇をさまよったすえ、とりあえず③軌道上に黄色と紫の縦縞をもつ岩石バスケットボールを見いだし、そのすぐ近くに腰を下ろした。黄色と紫の縦縞をもつ岩石バスケットボールの右となりには、巨大なスピカーにつながれたソ連の宇宙ステーションギターがあり、そのさらに右には天までとどきそうな脚立とたらいが置かれている。たらいには大量の星の燃えかすあずきが入っている。反対側、左となりには、UFOの家族ドラムセットの惑星、そのさらに左には木製小型ソーラーヴィオラとつづいている。それぞれの星にはろうそくの灯が3つずつともっており、さながら灯台のように、惑星の存在を闇に向かって伝えていた。

5分ほどの静寂のあと、15人のプレイヤーがぞろぞろと登場。會田洋平、瀬木俊、池田武史、吉田翔といったコアベルメンバーの他に、美術家の遠藤一郎や小林耕平などの姿も見える。各自、軌道上をぐるりとまわって所定の惑星に着陸。しばし指揮者の合図を待つ。
演奏の開始は星の燃えかすあずきが知らせた。脚立の上にまたがったプレイヤーが一気にそれを自由落下させ、すると床のたらいに衝突してバチバチとはぜる爆発。その衝撃によって演奏宇宙始まった誕生したのである。
演奏の開始とともに宇宙が誕生するというのは、根本的に矛盾している。なぜなら宇宙空間には音が存在しないのだから。しかしまさにこの矛盾こそ、今回のコアベル12回講演最終回で実現したことなのである。
星の燃えかすあずきの爆発とともに、すべての惑星はいっせいに大爆音を奏で始めた。各プレイヤーがひとつの持続音を出しており、それが全体として耳をつんざくような音量のドローンを形づくる。持続音といってもドラムの連打やギターのリフのように短音の継続を行う場合もあるので、全体として完全な単調にはならず、微妙な質感のゆらぎが続いていく。絵画で言うならマーク・ロスコのようだ。
しかし奇妙なことに、このボリューミーなドローンに耳はたっぷり満たされているのだが、目の前に見えている惑星からは、聞こえるはずの音が聞こえてこないのである。聞こえてこない、というか正確には聞き分けることができない。その効果を強く感じたのは、私が黄色と紫の縦縞をもつ岩石バスケットボールの近くに陣取っていたせいもある。岩石がバウンドするたびに鳴っているはずのドン・ドン・ドン・ドンという音を、まったく聞きとることができないのだ。目の前では確かにプレイヤーがドリブルをしているにもかかわらず。
音がないと、ドリブルはまるで宇宙遊泳のように見えてくる。ドリブル宇宙遊泳。それはいわば、爆音を聞きながらパントマイムを見ているような感覚である。そう、宇宙空間で起こることは人間の目にはすべてパントマイムなのだ。物どうしが衝突してもエネルギーの交換があるだけで音は聞かれず、また衝撃波を風として感じることもない。宇宙空間では出来事と観察者を結びつけるもの、つまり「空気」が存在しないのである。ただ視覚的にのみ出来事をとらえるだけで、そのリアリティを観察者はつかむことができない。先述のとおり観察者は同心円をなす宇宙のただなかにいるのだが、音のないこの場所で、目の前で起こっていることはすべて幻影ファントム化されていくようである…。
こうして明るい闇はさらに闇を深めることになった。会場が方向感覚を奪う構造であったことは先に述べたとおりだが、それに加えて、音までもが奪われることになったのである。演奏することで音を燃やし尽くす。足し算によって数を減らす。地球上の数概念に反するような演算が、コアベル12回講演最終回の成り行きを計算しつづけていた。

ドローンがしばらく続いたのち、中央のステージにさらに3人のプレイヤーがあらわれる。太陽の位置にいる彼らは宇宙全体の監視役であり、太陽の名にふさわしく懐中電灯を手にしてあたりを見回している。
三つの太陽の登場によって、15の「惑星」に変化がおこる。親指を突き上げる「グッジョブ」のサインを交換しはじめるのだ。このサインは、あらかじめ決められてたルールにのっとって出されていたらしい。終演後に聞いた話では、そこには次のようなルールがあった。グッジョブサインを出した惑星の住人プレイヤーと出された惑星の住人プレイヤーは、それまでの持続音の演奏をいったん停止する。これはさながら惑星が自転をやめて停止したかのようだ。しばらくの休止のあと、サインを出した住人プレイヤーが、また別のサインを出す。こんどのサインは指揮者が指揮棒を振るような手の動きで、このサインが出たら、両惑星はビートのある演奏を始めなければならない。さらに、サインを出した方は出された方よりも早いビートを刻まなければならない(これは住人プレイヤーもほとんど聞こえなかったのではないだろうか)。ビート演奏の終了タイミングを決めるのは、サインを出された側の住人プレイヤーで、出された側が持続音に戻ったのを見て、出した側も持続音に戻る。
持続音のあいまに許されるビート演奏は、いわば惑星に与えられたつかのまの自由である。それは持続音の拘束を離れて住人プレイヤーが自己表現をする時間でもあり、確かにサインウェーブやギターなどその表現が「聞こえる」惑星もある。そうなると惑星の魂の叫びのようである。しかし大部分の出来事はドローンに呑み込まれ、形を失い、パントマイムとして幻影ファントム化されて行く。サインは中央の監視役に見つかると無効になるようだが、そのスリルも観客は共有することができない。魂の叫びもすべては聞かれず、惑星同士の交信にともなう緊張感もとどいてこず、目の前で起こっている出来事なのに観客はすべてを実体のないものとしてしか見ることができない…。
住人プレイヤーはビート演奏を一度行うたびに自分の惑星のろうそくの灯をひとつづつ消していく。ろうそくはゲームで言う「ライフ」みたいな感じで、すべての灯がなくなった住人プレイヤーは、演奏を終了しなければならない。ろうそくは3つあったから、ビート演奏ができるのは3回のみ。方向が消え、音が消え、ついに光が消える。
演奏を終了した住人プレイヤーは、中央ステージ太陽を中心として、③の軌道と④の軌道のあいだを回り続けなければならない。回る、といってもつまりはジョギングだ。演奏をやめて走るプレイヤーの数は少しずつ増え、最終的にはすべてのプレイヤーがジョギング公転をはじめる。周囲を走るプレイヤーたちに光があたることはない。まるで冷たくなった星のように、あるいは虚空をさまよう人工衛星の破片のように、決められた軌道の上で永久運動を行うだけだ。暗い影が壁にのびる。
ジョギング公転は、15分ほど続いただろうか。約1時間続いた演奏引き算のあとの15分、無音のなかで隠されていたものが次第にあらわれ始める。実体のないパントマイムが終了してマテリアリズムの出現だ。周囲を走るプレイヤーの足音、息づかい、ため息、咳払い。そして何よりポテトチップスと酒の惑星の住人である瀬木俊のむせび泣く声。ジョギング公転は音楽が終ったあとも続いているドーナツ盤の回転のようでもあり、針が盤にひっかかる空しい光景を観客はぼんやりと見つめているのみ。するとポテチや酒が置かれた机に、蝶ネクタイをした道化のような男が近寄ってテーブルクロス引き…失敗…ガラガラガッシャーン。それは「疲労」や「情念」といった湿っぽいものが立てる音であり、水の惑星地球の音なのであった。宇宙から帰還した宇宙飛行士のような気分で、私はその運動会を眺めていた。
最終的にあらわになった瀬木のむせび泣きは、ある意味では種明かしをしているとも言える。つまりコアベルの二面性を表しているようにも見えるのだ。むせび泣きは、水の惑星に生きる身体としての物質性を示すマテリアリズムなのか、それとも何からの湿っぽい情念をあらわす物語的イリュージョンの象徴なのか。つまりここにあるのは、匿名的身体楽器なのか、それとも芝居っけたっぷりの泣く男芸人の身体なのか。おそらくその両方、というのがコアベルの答えなのだろう。宇宙の誕生を目撃したと思ったら宇宙創造の神話劇を見せられていただけだった…どこかそんな「夢オチ」の敗北感を味わいながら、会場を後にした。