写真:前澤秀登
ウワサの信憑
三輪健仁
し~んそ~、し~んそ~、し~んそ~。し~んそ~、し~んそ~、し~んそ~。え~、さー、さー、さー、さー、さー、さー。さー、今週も始まりました、「ウワサの眞相」でございます。どうもありがとうございます。今宵はですね、バックバンドを務めていただきますのは噂のバンド、「鉄球シリウス」でございます! では、早速ですね、パネラーの方に噂を披露していただきましょう。それでは、聞かせてちょーーだいっ!
えーと、こんばんは。2014年6月23日の夜、六本木のSuperDeluxeで、core of bellsによる月例企画『怪物さんと退屈くんの12ヵ月』の第6回公演「ウワサの眞相」が開催されたそうなんですね。今日は、実際にお客さんとして現場に居合わせた知人から聞いた、この公演にまつわる噂を話してみようと思います。
SuperDeluxeは六本木の雑居ビルの地下にあって、入口の扉を抜けると幅10m弱、そして奥行15mほどの細長い空間が現れます(1)。その日は入って右手の、長手の壁を背にステージが作られていました。と言ってもステージの三方をプラスチック製の半透明の衝立が囲っているので、中は見えません。そして正面の衝立の前には巨大なビニールプールが置かれていました。ステージの両サイドの壁面には、プロジェクターから画像が投影されています。客席はステージに正対するかたちで、おおよそ50席ほどといったところです。客席がほぼ埋まり、開演時間の午後8時を少し過ぎた頃、「チッ、チッ、チッ(ワン、ツー、スリー)」と2本のドラム・スティックが叩かれ、それを合図にドラムとギターによる軽快な演奏が始まると、囲いの前に立った白シャツに眼鏡の「司会者」が次のような口上を述べたんです。「し~んそ~、し~んそ~、し~んそ~。し~んそ~、し~んそ~、し~んそ~。え~、さー、さー、さー、さー、さー、さー。さー、今週も始まりました、『ウワサの眞相』でございます。どうもありがとうございます。今宵はですね、バックバンドを務めていただきますのは噂のバンド、『鉄球シリウス』でございます! では、早速ですね、パネラーの方に噂を披露していただきましょう。それでは、聞かせてちょーーだいっ!」
すると、おそらく囲いの向こう側にいるだろうパネラーが、壁面にさまざまな「資料」を投影しながら、ボイスチェンジャー越しの奇妙な声で自分の持ちネタを披露し始めました。一人目の噂は次のようなものだったそうです。そのパネラーは、原稿を書き上げるために北陸のある漁師町に滞在したそうです。そこは古代の巨岩、巨木信仰の跡が今でも残る場所で、夜になると町全体がいわば巨大な霊堂になり、たくさんの霊が集まってくるという噂があるのだそうです。滞在した宿の女将からもそんな話を聞いたパネラーは、漁師から面白い話が聞けるのではないかと飲み屋街に繰り出します。ちょうど飲み屋にいた漁師たちと仲良く話を交わしますが、肝心の霊のことになると彼らはそっけなく、話をそらされてしまいます。そうこうするうちに酔いもまわり、気づくとお客は自分一人だけ、彼はあわてて外に出ました。すると日中に比べ磯臭さが強まり、なんだか空気も生温かくなっている。「何も見えないけれど、たしかに感じる、まずいことになったぞ」と彼はパニック状態になります。その時、肌から何から全身真っ赤な女性が、夜だというのにはっきりと見え、奇声を挙げながら猛スピードで彼に向かってきたというのです。彼は一目散に逃げ、ようやく宿にたどりつくと、布団をかぶってガタガタ震えながら朝を迎えました。帰京後に、彼の「師匠」が言うには、あの町は断層の関係で特殊な磁場になっていて、巨木、巨岩が多いのもそれが理由らしい。そして、磁界の強さと方向を示す磁束の密度単位「テスラ」の語源となり、テスラ・コイルの発明でも有名なニコラ・テスラ(1856-1943)が、この漁師町に関心を持ち、滞在していたらしいのです。最後にパネラーは、「あなたはこの噂を信じる派ですか? それとも信じない派ですか?」という言葉を投げかけ、話を締めくくりました。
ここで、白シャツに眼鏡の司会者が「うーん、20秒いってみよー。ミューーージック、スタートッ!」と叫びました。すると天井の照明が高速で点滅し、「ドゥク、ドゥク、ドゥク、ドゥク、ドゥク、ドゥク……」と、ややチープな打ち込みのトランス系音楽が響き渡る中、やはりボイスチェンジャーによる奇妙な声がこんなCMを矢継ぎ早にまくし立てたのだそうです。「疲れが取れない、眠りが浅い! ここぞというところで頑張れない! もう私ってダメかも~。人生オワタ~、ワロス、なんて嘆いているそこのあなた! ノンノン、甘い、甘い! もっとパンチの利いた人生欲しくないですか、イェイ! もっと無軌道に生きたくないですか、イェイ! ガンガンやったらええがな、ガンガン! 勝手に人生終わらせたらアカンぜよ! OK! そんな時はこれ、『マジ・ビリビリ・ギャラクシー』! 使い方はとっても簡単! 両側のコメカミに磁気パッチを貼るだけ、ね、カンタンでしょ? これで疲れなんてぷちゅーっと吹き飛んでいっちゃうよ! ムクムク活力が沸いてきてるから、うっかり表に飛び出して通行人をぶん殴ったりなんかしたらダメだぞ~」。と、ここで司会者が「ピーーーーー」とホイッスルを吹き、「はい、終了~」と一声。すると驚いたことに「うわーーーーっ」という叫び声とともに、半透明の囲いに血しぶきがしたたり、囲いの向こうにいたらしいパネラーが、水鉄砲で撃たれて死亡したらしいのです。
しばしの沈黙の後、再び「鉄球シリウス」による冒頭のジングルが繰り返され、司会者は何事もなかったように「今夜はですね、まだまだ沢山の噂が続いております。みなさまにはたくさんの噂をお聞きいただきたいなと思っておりますんで、さっそく次の噂にいってみましょー。聞かせて、ちょーーーーだいっ!」と次のパネラーを紹介します。こんな具合に、何人ものパネラーが次々と、「娘が通う小学校のモンスター・ティーチャー」、「48年周期で開花する竹」、「立ち食いそば屋の歴史」、「ゲルハルト・リヒターとレオナルド・ダ・ヴィンチの作品の共通点」、「歯のインプラント」などにまつわる噂を披露していきました。そして同じように、司会者のジャッジによって決められた秒数に応じて「マジ・ビリビリ・ギャラクシー」のCMが流れた後、パネラーたちは水鉄砲に撃たれて次々に死んでいったのだそうです。
さて、core of bellsの面々が、この公演と言いますか、テレビ番組の公開収録で意図していたのはいったいどんなことでしょう? まず、パネラーや「鉄球シリウス」は、ステージと客席を分かつ囲いの背後に「隠れて」いたわけですが、このパフォーマーとオーディエンスの関係の構造は、噂によると、アメリカのアーティストであるヴィト・アコンチが1972年に発表した《苗床(Seedbed)》から着想を得ていたらしいのです(2)。《苗床》とは、ニューヨークのソナベント・ギャラリーにおいてアコンチが3週間にわたって行ったパフォーマンスです。ギャラリーの床は傾斜のついた上げ底になっていて、部屋の隅にはスピーカーが1台置かれていました。そして観客は、スピーカーから大音量で鳴り響く奇妙な語りを聴くのでした。実は、上げ底の床の下にアコンチが隠れていて、毎日8時間、鑑賞者を性的妄想の対象にしてマスターベーションし続けていました。つまり観客が聴いていたのは、自分の足元にいる、不可視のアコンチがマスターベーションの際に発するさまざまな「声」だったのです。多くの観客は、実際に床の下にアコンチが隠れているとは信じず、「声」を録音されたものとして受取ったと言われています。
では次に、なぜ「噂」というものがテーマになっていたのかを考えてみましょう。噂とは、流言、飛語などと言い換えられるように、あるいは噂が「伝播する」と言うように、ある距離を伴った間接的なものであるという特性を持つようです。先ほど述べた、公演において半透明の囲いによってステージと観客席が物理的に遮られ、「声」や「音」だけが届くという「隠蔽」の構造が設定されていたことにも、この間接性が反映しているように思えます。リアルタイム、生、といった現前性を最大の特徴とするライヴにおいて、こんなにも不在の感覚、そして不在による想像力が掻き立てられるという事態は、なかなかに珍しいことではないでしょうか。
このような「噂」の特性から生じるのは、あいまいさ、不確定性、そして言ってみれば或る種の俗っぽい胡散臭さです。そしてこの点こそ、噂というものが広まるか、広まらないかを決定づける要因であるように思うのです。なぜなら噂とは、本当か嘘かが分かった瞬間、つまりその真相が明らかになった途端に、流れたり、飛んだりする伝播力を失っていくものです。あからさまに本当でも、あからさまに嘘でもダメで、そのあやうい不確定なバランスをキープすることで、人の欲望を掻き立て、伝播の効果が高まるのです。ですから、噂が広まるか、広まらないか、つまり噂の価値は、このエフェクトの強度によって決まるのであって、必ずしも内容の真偽によってではないのです。サービスタイムの秒数、まあサービスと言っても、何秒与えられようが、結局水鉄砲によって射殺されてしまうわけですが……、とにかくこのサービスタイムとして与えられる、脅迫的かつ軽快に反復される「マジ・ビリビリ・ギャラクシー」のCMの秒数をジャッジする際の司会者の基準も、どうやらこのエフェクトの強度に置かれているように思われました。
間接性や不確定性に基づくこの噂のエフェクトは、core of bellsが用いる「気配」という言葉と近しいようにも思えます。core of bellsの言う気配とは、通常は音楽において周辺的あるいはノイズとされるだろう「演奏された音よりも他の事象、例えば『寝たり、申し訳なさそうにトイレに行く客』」(3)<のようなものを指し、それらが持つ虚ろな幽霊性(「怪物さん」)や、その幽霊性の強度を増幅させる反復性(「退屈くん」)が、自分たちの音楽にとって重要であることを述べるために使っていました。いわばこの公演で彼らは、自身が隠れることにより、ステージの中央で音を発する中心的な主体をも気配化、幽霊化しようとしたわけでしょう。こんなふうに噂というものを「気配」として捉えてみると、それはしばしば怪物のように恐ろしいものであり、また退屈さを伴った反復性を持つものでもあることが明らかになります。そして、噂とは反復される中で、時に増幅し、時に減衰していくものだと、音楽風に喩えてみることもできるかもしれません。
そうすると、しばしば使われる噂の「信憑性」という表現には、その表面的な意味とは別の意味が隠されているように思われてきます。一般的に、噂の信憑性と言ったら、その内容が本当か嘘か、あるいはリアルかフィクションか、ということが問われているように思えますが、実はそうではありません。「憑」という字には「拠りどころ」という意味がありますから、信憑性とはいわば「信じる根拠」ということでしょう。ここでパネラーたちが最後に決まって発していた「噂を信じる派ですか? 信じない派ですか?」という問いかけが、きわめて示唆的に響いてくるではないですか。つまり、ここで問題になっている、計られているのは、噂の真偽ではなくて、それをどれだけ信じられそうか、という気配の度合いです。これをやや大げさに言い換えるならば、問題にされているのは、「信仰」なのです。
さて、ここで少し迂回気味に、噂にまつわる表現をもうひとつ取り上げてみたいと思います。それは噂に「踊らされる」という言葉です。気配が強ければ強いほど、人はその噂に「踊らされ」ます。ですから、「信じる派ですか? 信じない派ですか?」という発語は、その噂に「踊らされますか? 踊らされませんか?」、あるいは噂に「ノリますか? ノリませんか?」という問いかけとして解釈できるのです。江戸時代に近畿、四国、東海地方などで「天から御札が降ってくる」という噂が広まり、「ええじゃないか」という囃子言葉を連呼しながら大勢の民衆が町々を巡って熱狂的に踊った「ええじゃないか」騒動をここで思い出しておくのも、意味のないことではないでしょう。とにかく、こんなふうに考えるならば、「噂」が「ノリ」というきわめて音楽的な問題に関わっているのだということが分かりますし、「気配」もまた音楽の構成要素だというcore of bellsの主張が、にわかにアクチュアルなものとして浮かび上がってくるのではないでしょうか。
そしてここに至り私は、先ほどの「信憑性」の「憑」の字が、「憑依」という言葉に含まれていることにハタと気づいたのです。憑依とは、霊が乗り移ることです。そして「或る人に外在するはずの霊が、彼/彼女の行動を支配している証拠」というふうに言い換えれば、憑依には確かに「拠りどころ」という意味も含まれています。
ですから、「信じるか、信じないか」、つまり信憑性の問いかけとは、憑依する、つまり霊が乗り移ることを認めるか、ということでもあるのです。そして、ここまでくればみなさんも想像がつくように、人は霊が乗り移ったときにしばしばトランス状態になり、「踊る」というよりも、「踊らされる」のです。
ここでようやく先ほどの「信仰」の問題にもう一度戻ってきます。ちょっとややこしい言い方になりますが、信仰の信憑とは、信じる根拠ということなのだけれども、詰まるところ、その根拠は無いのです。信仰とは、その真偽を問題にするというより、「信じる者は救われる」という言葉に象徴されるように、ただ信じる、いわば無根拠に信じられるということです。そのような状態にあるときに初めて、憑依が呼び寄せられ(降霊し)、人は「踊らされる」のではないでしょうか。そしてそのとき人間は、空洞な「メディウム(medium)」になるでしょう。「媒体」としての、そして何より「霊媒」としてのメディウムです(4)。この踊るメディウムを通過して、噂は伝播していくのではないでしょうか。
このように噂というものをめぐる問題が、それにノッて踊らされるか、ということに関わっているのだとすると、公演で執拗に繰り返された、それ自体ひとつの噂である胡散臭い「マジ・ビリビリ・ギャラクシー」のCMが、俄然重要に思えてきます。知人によれば、パッチが本当にあるのか、ないのか、という真偽は棚上げにされ、この反復脅迫的なリズムと歌詞のシークエンスが頭にこびりついて離れないのだそうです。そして、公演の最中になんだかお尻がムズムズしてきたのは、席に長時間座り続けていたからというだけではなくて、この「噂」に自分がノリかけているためではないかと気づいたとき、たしかにこれは演奏だ、そして音楽だと信じてみたくなったのだという知人の言葉の信憑性は、いやがうえにも増してきたのでした。
公演の終盤、半透明の衝立の一部がカッターで徐々に矩形に切り取られ、囲いの向こうから死んだはずのパネラーらしき人々が顔をのぞかせ、そこから血潮がジャブジャブとビニールプールへ流れ落ちていったそうです。これは一見すると「噂の真相」のようにも、あるいは噂というフィクションをリアルへと「引き下ろす」(5)行為のようにも思えますが、おそらくそうではないでしょう。噂を語る当人(死人)が姿を現したとしても、噂の信憑性はあいかわらず不確定なままです。客席最前列でその場に居合わせたという知人が履いていた白いスニーカーには、プールに落ちた血が跳ねた、返り血のようなものが付着していました。噂の真実性の、唯一の「直接的」拠りどころかのようにみえるその血糊も、やはり噂を増幅するものでしかないのだと感じられました。ちょうど死人が甦り、衝立の向こうから顔をのぞかせるように、噂は何度も何度も、執拗に再帰し、伝播し続けてゆくのでしょう。
以上が最近、私が仕入れた噂になります。あなたはこの噂を、信じる派ですか? それとも信じない派ですか?
さて、あの白シャツに眼鏡の司会者は、私の噂に何秒のサービスタイムをくれるのだろうか?
(註)
1.以下のサイトでSuperDeluxeの平面図を閲覧できる(2014年7月14日閲覧)。https://www.super-deluxe.com/docs/sdlxspec.pdf
2.以下のサイトで、肝心の「声」は記録されていないものの、《苗床(seedbed)》の動画を閲覧できる(2014年7月14日閲覧)。http://www.ubu.com/film/acconci_seedbed.html
3.core of bells「我々は何故隠れるに至るのか」『ドキュメント|14の夕べ||パフォーマンスのあとさき、残りのものたちは身振りを続ける:2012年8月26日-9月8日に東京国立近代美術館にて開催されたイベント「14の夕べ」の記録集:美術、音楽、演劇、ダンス、朗読における、いわゆる「パフォーマンス」に焦点を絞った「14の夕べ」の出演者は、第1の夕べ 東京デスロック、第2の夕べ 福永信/古川日出男/谷川俊太郎、第3の夕べ 奥村雄樹、第4の夕べ No Collective、第5の夕べ 手塚夏子、第6の夕べ 高嶋晋一、第7の夕べ 小杉武久、第8の夕べ 大友良英 one day ensembles、第9の夕べ 神村恵カンパニー、第10の夕べ core of bells、第11の夕べ 小林耕平、第12の夕べ 村川拓也、第13の夕べ 橋本聡、第14の夕べ 一柳慧であり、第1から第14の夕べに関わる、上演開始までに作成された台本・指示書・テキスト・楽譜などの「スコア」、メモ、ドローイング、メールのやり取り、告知用印刷物、当日配布されたプログラムなどの事前資料、および記録写真、記録音源の書き起こし、上演終了後に作成された「スコア」、インタビュー、座談会の書き起こし、出演者によるテキスト、会場図面、上演に関わる各種データ、レビュー、論考などの事後資料が、時系列順に記録されており、編集は東京国立近代美術館による。』(青幻舎、2013年)、263頁。
4.霊媒としてのメディウムについては、以下を参照。ロザリンド・クラウス「ヴィデオ:ナルシシズムの美学」(石岡良治訳)『ヴィデオを待ちながら――映像,60年代から今日へ』(東京国立近代美術館、2009年)、184-200頁。
5.core of bells、前掲書、266頁。
三輪健仁
1975年生まれ。近・現代美術。東京国立近代美術館主任研究員。立教大学非常勤
講師。主な企画(共同キュレーションを含む)に「14の夕べ」(2012年)、「パ
ウル・クレー展――おわらないアトリエ」(2011年)、「ヴィデオを待ちながら――映
像,60年代から今日へ」(2009年)など(いずれも東京国立近代美術館)。